全体的な行程は、徒歩でJR鎌倉駅を出発し、小町大路にはいり小町エリアの北側、妙隆寺や宝戒寺を参拝、
祇園山を突き抜ける宝戒寺隧道をくぐり、大町へ。大宝寺を参拝して名越からバスにて鎌倉駅東口に戻ります。
総行程は約3KM、概ね2時間から3時間の半日旅を写真で振り返ります。
鎌倉駅東口からスタート
JR鎌倉駅東口改札を出て正面バスロータリーの真ん中の横断歩道を直進。
横断歩道を渡った先の歩道を左に進めば小町通りに出ますが、ここではさらに直進し若宮大路「鎌倉駅入口」交差点まで進みます。
若宮大路から小町大路
若宮大路「鎌倉駅入口」交差点にあるとんかつ「あら珠」の角を左に。
若宮大路を1ブロック進むと「二の鳥居前」交差点に出ます。
この二の鳥居から鶴岡八幡宮三の鳥居までは段葛が続いていますが、二の鳥居交差点をファミマ側に渡って、ファミマ横の道を進みます。
蛭子神社
ファミリーマート横の道を進んだ突き当りが小町大路で、その小町大路を渡ったところに蛭子神社があります。蛭子神社の小町大路に面した入口は狭く、鳥居も少し奥まっているので、そこに蛭子神社があると知っていなければ見落としてしまうかもしれません。
この蛭子神社は「ひるこじんじゃ」と読みます。蛭子神社の名前の神社は全国にありますが、えびす神社と読むことが多く、また、エビスは「夷」「戎」とも「恵比寿」とも表記されます。
蛭子神社は鎌倉時代から小町の夷堂橋の本覚寺付近に夷三郎社としてありましたが、そこに本覚寺が創建され、一時は夷堂として本覚寺内に残ります。明治時代の神仏分離令により、現在の地に移転、「村社」となり、この地にあった七面大明神と宝戒寺にあった山王大権現と合祀され蛭子神社と称しました。
ご祭神は大己貴命 ( おおなむちのみこと ) 。大己貴命は出雲大社の御祭神である 「大国主命」 (おおくにぬしのみこと) の青年時代の呼び名といわれています。
妙隆寺
蛭子神社を出て、小町大路を(右に)200mほど北上すると、左手に妙隆寺の寺標が現れます。
源頼朝の御家人千葉常胤(つねたね)の子孫である胤貞(たねさだ)が至徳2年(西暦1385年)に本領の千葉に戻る際、祖先の冥福を祈るために日英上人を開山として創建しました。そのため、妙隆寺は千葉屋敷とも呼ばれています。
開山日英の甥が第二祖日親。日親上人は、宗祖・日蓮上人にならい「立正治国論」で室町幕府六代将軍・足利義教の悪政を戒めますが、弾圧され数々の拷問を受け、ついには焼けた鍋を被せられたので「鍋かむり日親」と呼ばれています。
宝戒寺
妙隆寺を出て、小町通りを(左に)北上していくと、左手から伸びる横大路とぶつかるところに宝戒寺があります。
一歩境内に入ると豊かな緑に囲まれた静かな参道が門へと続いています。
境内の奥には広い庭があり、桜、百日紅や酔芙蓉、萩、梅、椿など季節の花々が楽しめます。
本堂は上がってご本尊にお参りできます。
本堂の脇には大きな樹木が。
宝戒寺には、本堂のほかに三つのお堂「聖德太子堂」「德崇大権現堂」「大聖歓喜天堂」があります。
東勝寺橋
宝戒寺を出て小町大路を右(南方向・・海側)に進むと、右側に東勝寺跡の案内が出てくるので左に曲がります。東勝寺跡の先には祇園山ハイキングコースの入口があるので、そちらを目印でも構いません。
50mほど進むと、滑川にかかる東勝寺橋があります。東勝寺橋は関東大震災の跡に架けられた歴史あるアーチ橋です。
このあたりの滑川は、渓谷のように深く削れており、アーチ状の東勝寺橋は滑川を背景に趣のある眺めです。
また、付近には青砥藤綱の銭拾い伝説(川に落とした十文の小銭を五十文のタイマツを買って探させた)が残ります。
東勝寺跡
東勝寺は、1225年鎌倉幕府第3代執権北条泰時(やすとき)の命令により建てられた、北条得宗家の菩提寺。
倒幕の機運が高まっていた1333年、鎌倉幕府執権は第十四代を数え北条高時の時代、足利高氏(尊氏)の裏切りや新田義貞の挙兵、などで、鎌倉幕府は追い詰められ、執権高時は執権の居館(現宝戒寺)を焼かれ、裏山の東勝寺に立てこもり自ら火を放ち自害しました。一族郎党870余名も運命を共にし、鎌倉幕府は滅亡した。同時に東勝寺は焼失したが、後に再建されたものの、後年東勝寺は廃寺となり、現在に至ります。
また、北条氏一族自害の場所は腹切りやぐらと呼ばれています。
東勝寺のあった場所は、昭和や平成時代の発掘調査によって建物跡や北条家のゆかりのものが出土し、東勝寺跡であることが確認され、国指定の史跡となりました。
北条高時腹切りやぐら
東勝寺跡を少し進むと、祇園山ハイキングコースの入口があり、そこに高時腹切りやぐらがあります。もともと東勝寺の域内の地であり、北条氏一門の遺骨が埋葬されたとの謂れがあるのですが、裏付けはないようです。
現在、腹切りやぐらのなかは立入禁止となっています。
宝戒寺隧道
腹切りやぐらから先程来た道を戻る形で路地を下ります。100mほど下ると右側にカーブミラーのあるT字路に出るので左に曲がります。
カーブミラーを見過ごして東勝寺橋ひぐらし公園に出てしまうと、直進し過ぎなので1本戻りましょう。途中「宝戒寺隧道」に関する案内はありませんので、注意して進んでください。
左にまがったら、引き続き細い道がしばらく続きます。しかも登り坂、かなり急な登り坂を5分ほど頑張ります。
坂道を登りきると、突如山にぶつかりトンネルがその下に見えてきます。このトンネルが宝戒寺隧道です。
「歴史的風土妙本寺衣張山特別保存地区」の道標が建っていますが、ここでも「宝戒寺隧道」の案内は一切ありません。しかも衣張山と道標にありますが、トンネルの上は祇園山で祇園山ハイキングコースが上を横切ります。
今回の進行方向でトンネルの右側(西側)には妙本寺があり、妙本寺内の「源媄子の墓」がトンネルの数十メートルのところにありますが、ここからは、一度大町に出て1.5kmほど歩かなければ行けません。
このアクセスの悪さが源頼朝が幕府を奥にあたって鎌倉を選んだ大きな理由であるわけです。
鎌倉時代には、鎌倉に東から入るにはまさに衣張山の二箇所の切通(谷沿いの細い道)、朝比奈切通で六浦道(金沢街道)か、名越切通で大町大路に出るしかありません。ちなみに鎌倉の北も西も同様に山に囲まれ限られた切通しを通らざるを得ず、また南は海となっていて、敵の攻撃を防ぐには、まさに天然の要塞だったことがわかります。
わずか100mほどの宝戒寺隧道ですが、このトンネルがなければ大町と小町は小町大路まで出るか、祇園山を歩いて越えるかしかありません。
この宝戒寺隧道、土地の人以外にはあまり知られておらず、地図に大きく載っているわけでもありません。大きな道路が接続しているわけでもないのに、なぜこのトンネルができたのか。
大宝寺
宝戒寺隧道を出て住宅街を道なりに進み、突き当りを左に曲がると大町大路に向かう道となります。この道を暫く進むと右に大宝寺の案内があります。そこを右に曲がると大宝寺です。
大宝寺は、後三年の役の後、源義家の弟新羅三郎義光が、この場所に館を構えたのが始まりで、室町時代に義光の子孫である佐竹義盛がこの地に住んだので佐竹屋敷とも呼ばれました。佐竹義盛は館内に多福寺を建立しますが、戦国時代に荒廃し廃寺となります。その後跡地に日出上人が日蓮宗の寺を再興、多福寺の名を山号に残し、多福山大宝寺としました。
境内には新羅三郎義光ゆかりの多福神社があります。
大町大路名越から鎌倉駅
大宝寺をあとにしてもと来た道を戻り、大宝寺の案内のある角を右に大町大路に向かいます。
大町大路にぶつかる交差点は道が狭く、路地側から大町大路に出る車はかなり手前で信号待ちをする形になっています。
大町大路との三叉路に出たら、大町大路の反対車線にわたり、右方向に進むと、ローソンの正面に名越バス停があります。ここで鎌倉駅ゆきバスに乗って鎌倉駅東口に戻ります。