![](https://deg-image.com/wp-content/uploads/2024/03/MAP_w_005.jpg?v=1710308083)
今回の全体的な行程は、徒歩でJR鎌倉駅を出発し、宝戒寺・来迎寺を参拝、
大蔵幕府跡周辺の遺跡を散策、最終的に鎌倉宮バス停からバスにて鎌倉駅に戻る。
3回に分けて、おおよそ3時間から4時間の半日旅を写真で振り返る。
第3回は大蔵幕府跡から頼朝法華堂跡、義時法華堂跡を経由して荏柄天神社参拝ののち鎌倉宮に向かう。
距離はおよそ2kmほど。鎌倉宮からの帰路は、バスにて鎌倉駅に。
大蔵幕府跡
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来迎寺参拝の後、来た道を戻り鎌倉宮に向かう道に入る。
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ここから道路はレンガ風の石畳となり、車はほとんど通らず静かだ。
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しばらく進むと大蔵(大倉)幕府跡の石碑がある。現在の感覚からすると、1180年、この地に源頼朝の居宅である御所が設置され、その後頼朝が征夷大将軍に任ぜられるなどして、徐々に御所に政庁としての機能が備わっていった、ということになろうか。当時は、幕府とは将軍の居宅を指した言葉でもあったようである。大蔵(大倉)御所(幕府)は、何度か焼失し再建されたが、1219年失火によって焼失したのち再建されることはなく、跡地は民家などが立ち並んでいたようである。
この幕府跡は建物や土台などは残っておらず、石碑があるのみである。歴史文献などから、この地に御所があったことは間違いないようだが、御所の範囲は当時記されたいくつかの文献の内容が完全には一致せず、確定は難しいようである。
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大蔵幕府の石碑の角を直進して東に向かえば鎌倉宮だが、法華堂跡に寄るため左折し北に向かう。
-法華堂跡-
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法華堂跡に突き当たる。法華堂跡の石碑があるのは山のふもとで、ここには白旗神社があり、階段を上り山の中腹に行くと、頼朝の墓の石塔がある。この石塔がある開けた場所に法華堂があったとされている。
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山のふもとの白旗神社を望む。
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法華堂があったとされる場所は、大蔵御所の北隅と考えられている。もとは頼朝が信仰していた正観音像を祀っていた持仏堂だったが、頼朝が亡くなるとこの持仏堂に埋葬された。その後法華堂と呼ばれるようになったとのこと。
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現在、法華堂があった場所に建っている頼朝の墓の石塔は江戸時代に建てられたもの。
花が手向けられ、きれいに手入れされている。
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![](https://deg-image.com/wp-content/uploads/2024/03/deg_j_005_-13-1.jpg?v=1710218993)
法華堂跡を降りて、東隣にある義時の法華堂跡に向かう。義時の法華堂跡の奥には大江広元らの墓があるため、その案内に従い山沿いの道を進む。
義時法華堂跡
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義時の法華堂跡と大江広元らの墓の入り口にある階段。木々が鬱蒼と生い茂る。
写真で伝わるだろうか。頼朝の法華堂跡の階段と比べると、階段とその先が暗く感じるのは気のせいか。
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山の中腹に開けた場所があり、義時の法華堂跡の案内がある。
鎌倉幕府二代目執権北条義時の死後に建てられた義時の墳墓堂である法華堂があったとされる。
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現在は法華堂の建物の遺構が発掘され、遺構の柱や礎石の場所を木杭で再現している。
写真(下)奥に見える鳥居付近には2本の石段があり、毛利季光の墓・大江広元の墓・島津忠久の墓に通じている。また、鳥居の左側には三浦氏が供養されているやぐらがある。
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鳥居左側にある三浦氏が供養されているやぐら(横穴状の墓)には、鎌倉幕府の有力な御家人であった三浦氏一族が供養されていると伝えられている。三浦一族は、北条家に鎌倉幕府の権力が集中する機会となった宝治元年(1247年)の宝治合戦で、第五代執権北条時頼に攻められ、一族が頼朝法華堂にこもり自害をしたという。
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平場奥の二本の石段を上り、毛利季光の墓・大江広元の墓・島津忠久の墓に向かう。
毛利利光、大江広元、島津忠久の墓
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左の石段は大江広元と毛利季光の墓に、右の石段は島津忠久の墓につながっている。石段の中腹でそれぞれの石段を行き来できるが、墓のある石段頂上では左右の行き来はできない。
どちらの石段も一段の高さが高く急なので、手すりにしっかりつかまることをお勧めする。
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もともとそれぞれが供養されていたやぐらがあったが、江戸時代に有力大名だった島津氏と毛利氏は、墓として整備したものと伝わっている。
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三人の墓。手前の島津忠久の墓とあとの二人の墓との間に仕切りがあり、それぞれの階段を使わないとお参りできない。
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写真(上) 大江広元の墓
写真(下) 島津忠久の墓
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三氏の墓の脇には亀趺がひっそりと、墓を守っているようだ。静かで鬱蒼とした緑の中の小さな空間にあるこの亀趺は、歴史を感じるとともに何か人を寄せ付けないものがある。この場所に長居はできないようだ。
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義時法華堂跡から御所方向
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急な斜面に備わった石段は何処も急である。
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義時法華堂の急な階段を降り、住宅街を東に進む。
荏柄天神社に向かう。
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-荏柄天神社-
荏柄天神社の鳥居。
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北野天満宮や太宰府天満宮と同じく菅原道真公を祭神としており、学問の神様と呼ばれる。
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鳥居からは山の中腹にある本殿に向かって参道が伸びている。周辺は閑静な住宅街、訪れる人も多くはない。
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本日何度目かの石段。
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1104(長治元)年、天神像(菅原道真公 )が天上から降りてきたという伝承が創建の由緒。
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大倉御所の鬼門にあたるため、鬼門を守る神社として頼朝らに崇められたという。
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荏柄天神社の楼門は質素ながら堂々と構えており、神紋である梅の花を扉にあしらう。
![](https://deg-image.com/wp-content/uploads/2024/03/deg_j_004_-12.jpg)
楼門から望む拝殿。
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拝殿正面。国指定重要文化財。江戸時代に鶴岡八幡宮改築にあたって、鶴岡八幡宮の若宮の建物を移築し拝殿として整備した。鎌倉時代から江戸時代にいたるまで武家の信仰対象として大事にされてきたようである。
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拝殿の向かって左の小高い丘の上に絵筆塚がある。
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横山隆一など多くの漫画家による河童のレリーフが飾られている。
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楼門脇の大銀杏。天神社となる以前からこの大銀杏は地元の人々の信仰の対象であったようだ。
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鎌倉宮
鎌倉宮へ向かう。
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-鎌倉宮-
![](https://deg-image.com/wp-content/uploads/2024/03/deg_j_005_-32.jpg?v=1710219536)
明治時代に明治天皇の勅旨により護良親王を祀るため創建され、鎌倉宮と名付けられた。
地元の人は鎌倉宮のことを親王の別名である大塔宮(だいとうのみや・おおとうのみや)と呼ぶこともある。
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創建ののち、明治天皇の行幸があり、官幣中社に格付けされた。
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木々に囲まれ広い境内は、静かで厳かな雰囲気だ。
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本殿
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帰路につく。鎌倉宮を始発とした鎌倉駅行きバスが便利。ハイシーズンの週末でなければ10分から15分程度で鎌倉駅に着く。
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