楞厳山松葉谷妙法寺(妙法寺) 日蓮宗
みょうほうじ/Myohoji : Myohoji Temple
妙法寺は鎌倉市大町(名越)にある日蓮宗の寺院です。日蓮聖人がこの地に草庵を建て前身の本国寺を興しました。山号の楞厳山(りょうごんざん)は、妙法寺を中興開山した日叡上人の幼名からつけられています。
鎌倉駅からのアクセス
鎌倉駅東口から緑ヶ丘方面(鎌31系統 緑ヶ丘入口行き)バスに乗って、名越バス停で下車、バスが来た道を10mほど戻ると川の手前に右に伸びる細い路地があります。その路地を曲がり大町四丁目自治会掲示板を超えて100mほど進んだところの四角を右に曲がります。
四角を右に曲がった細い路地を100mほど(左側の路地3本目)進んだ角の左手に妙法寺の案内板があります。
案内板の門の先の突き当りに妙法寺の総門が見えます。
名越バス停からこの角の案内板までは妙法寺の案内は出てきませんので注意して下さい。
少し遠回りになりますが、わかりやすい別ルートを示します。
名越バス停を降りましたらバスが来た道を今度は15mほど戻ります。すると大町大路と妙法寺道分岐点に安国論寺の案内がありますので、その角を右に戻る形で入ります。そのまま150mほど直進します。四角の左前に額田記念病院が見えましたら、その角に妙法寺の寺標が建っています。左の道に入り70~80m進むと右に妙法寺の総門が見えます。
鎌倉駅から徒歩コースもご検討ください。鎌倉駅東口から大町大路の名越バス停までは徒歩で20分ほどです。駅から若宮大路ー大町大路と進む道、若宮大路を横切って小町大路ー大町大路と進む道があります。鎌倉駅東口から大町大路までは別願寺のページを御覧ください。名越バス停までは別願寺から安養院を経て200mほどの距離です。
由緒
妙法寺は建長5年(西暦1253年)創建とされ、この年日蓮聖人が鎌倉での布教活動の拠点として現在の妙法寺がある場所に草庵を開き住み始めたことに始まります。その草庵は松葉ヶ谷にあったので松葉ヶ谷御小庵と呼ばれました。現在も妙法寺境内奥の山腹に「御小庵趾」の碑があります。 この松葉ヶ谷御小庵については、妙法寺だけでなく近隣の安国論寺、長勝寺も松葉ヶ谷御小庵跡を称し、いずれの寺院も開山は日蓮聖人、創建は建長5年とされています。
文応元年(西暦1260年)この場所でいわゆる松葉ヶ谷法難が起きます。松葉ヶ谷御小庵が、鎌倉の僧・武士によって焼き打ちされたのです。 文応元年(西暦1260年)7月、日蓮聖人は「立正安国論」を時の執権北条時頼に献上しましたが黙殺されます。立正安国論は法華経の信仰こそが国家も国民も安泰への道とし、他宗について批判をしたものでした。同年8月、松葉ヶ谷御小庵が何者かによって焼き討ちされます。 その際日蓮聖人は白猿に導かれ難を逃れたと言い伝えられています。 葉ヶ谷御小庵にて日蓮聖人が夕べの読経をしていると衣の袖を引く白猿に気づきます。猿の導くままに山中に分け入りますと、しばらくして松葉ヶ谷御小庵の方で人々の罵り騒ぐ音がしました。聖人は自分に危害を加えようとする企てがあってこの白猿が知らせてくれたに違いないと考えますが、あたりを見回すと猿の姿は消えていました。猿は山王様のお使いであったと思い、聖人はますます不惜身命の志を固めたということです。
焼き討ちのさなか日蓮聖人は千葉に逃れますが、翌年鎌倉に戻った時に幕府によって拘束され、伊豆国伊東に流罪となります。伊豆国伊東への流罪から戻った後、弘長3年(西暦1263年)に松葉ヶ谷御小庵の跡に法華堂を再興、本国寺(後の本圀寺)とします。しかし本国寺は室町時代の貞和元年(西暦1345年)に京都に移ることになります。
本国寺が京都に移った後、延文2年(西暦1357年)後醍醐天皇の子である護良親王(もりながしんのう)と南方(みなみのかた)の間に生まれた日叡は、悲壮な最期を遂げた両親の菩提を弔い、日蓮聖人の霊跡を守るためにこの地に寺を興し、自身の幼名である楞厳丸(りょうごんまる)にちなみ楞厳山法妙寺と名付けました。 日叡上人は境内の奥の山頂には良親王、南方の墓を建て弔いました。
江戸時代になりますと、将軍家や徳川家、細川家などの武家や市民の帰依を受けました。将軍を迎えるため明治中期までは境内に将軍御成の間が置かれていました。
境内
妙法寺境内はどこも深い緑で覆われ、特に境内奥の苔の石段を中心とする山腹のエリアは高木としっとりとした空気に包まれた風情ある空間です。
総門
安国論寺に通ずる妙法寺道から妙法寺に入ってくると、まず目に入る松葉谷御小庵跡の碑と総門があります。この総門は通常開いていないので、左に続く参道を進み境内に入ります。
本堂
本堂は江戸時代に入って文政年間(1818~1831)に、肥後細川家によって寄進されています。本堂の全体の姿は見渡すことができないほど木々に囲まれています。
総門横にある受付では火をつけたお線香をいただけますので、本堂でお参りします。
大覚殿
本堂に沿ってを右手に進み、仁王門の手前右に建つのが大覚殿です。戦国時代の武将加藤清正公が祀られています。清正公は常勝の武将であったことから、勝負事にはご利益があると言われています。
仁王門
大覚殿の先には朱塗りの仁王門が建っています。門の両側には二体の金剛力士像が門を通るものに睨みを利かせています。(現在は門を通ることはできず、門の両脇を迂回して進みます。)
また、仁王門の先にある苔の石段を門を通して見ることができ、朱色の門に切り取られた石段は趣のある風景です。
法華堂
法華堂は仁王門の先の苔の石段を登り、さらに苔の保護のため通れなくなっている苔の石段上部の脇の石段を登った先にあります。こちらも江戸時代に水戸徳川家によって寄進され、日叡作と言われる厄除祖師像が祀られています。
松葉ヶ谷御松庵跡
法華堂の左手にある鐘楼の手前の石段を登ると松葉ヶ谷御小庵跡があります。日蓮聖人が建長5年(1253年)から18年間にわたって布教伝道の拠点として住んだと言われる霊跡です。
大塔宮護良親王の御墓
松葉ヶ谷御松庵跡の右手の山道を5分ほど登ると大塔宮護良親王の御墓があります。
妙法寺中興開山の日叡の父である大塔宮護良親王は、後醍醐天皇の皇子であり、若くして比叡山延暦寺の天台座主となりました。また、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の動きに呼応して幕府軍と戦いその勝利に貢献、武家の政権から天皇親政の世となりました。護良親王はその戦いぶりを評価され征夷大将軍に任命されました。しかし、足利尊氏と対立、陰謀により鎌倉二階堂に幽閉され、二十八歳の若さで非業の死を遂げました。
先に述べたように、日叡は、悲壮な最期を遂げた両親の菩提を弔い、日蓮聖人の霊跡を守るために寺を興し、護良親王、南方の墓を建てています。
大塔宮護良親王の御墓からは、鎌倉の西側を一望できます。
なお、松葉ヶ谷御松庵跡の左手の山道を進むと日叡の母である南の方の墓があります。
化生窟(けしょうのいわや)
仁王門の先、苔の石段の手前の左手を進むと、化生窟(けしょうのいわや)というやぐらがあります。日蓮上人が妖怪を退治したと伝わるやぐらです。
苔の石段
鎌倉の苔の寺と呼ばれる妙法寺。その所以は妙法寺境内奥の山腹にある苔に覆われた石段でしょう。深い緑に囲まれた苔の石段は、朱色の仁王門から法華堂を結ぶ急な石段で、通常は苔の保護のため立ち入りができません。しかし、石段の下から上を見上げると、苔と深い木々に覆われた姿が見事です。
季節の花
春は桜やシャガなど。5月にもなると苔の青さが際立ちます。6月はあじさいが。
秋の紅葉はもみじやいちょうが色づいています。
住所 鎌倉市大町4-7-4
JR鎌倉駅東口3番バス乗り場から緑ヶ丘入口行きで「名越」下車徒歩5分
電話番号 0467-22-5813
拝観料/入館料 中学生以上 300円 (小学生 200円)
開門・閉門時間 9:30~16:30
※*12月~3月、7月~9月の期間は、土・日・祝のみの拝観。