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妙本寺 比企一族が眠る日蓮宗最古の寺院 /鎌倉神社仏閣 #009

妙本寺 本堂

鎌倉駅からのアクセス

鎌倉駅東口から若宮大路を渡り、右方向(海側)に進み、鎌倉郵便局の先を左に曲がります。しばらく進み小町大路に突き当たったら右にしばらく行くと夷堂橋が滑川にかかっています。夷堂橋の先小町大路は大きく右にカーブしていますが、橋の袂に滑川に沿って妙本寺の参道が浅く左方向に伸びています。その参道を進むと妙本寺となります。

本覚寺から夷堂橋 妙本寺参道は左手カーブミラーの先
夷堂橋南側に伸びる参道 奥に妙本寺総門

参道入口には寺標が立っています。

題目塔

総門

妙本寺 総門
総門の右奥に見える建物は比企谷幼稚園
案内
比企能員邸址碑

頼朝は、乳母であり若き日の自分を支えてくれた比企禅尼を武蔵国比企郡から鎌倉へ招いたと言われます。現在の妙本寺祖師堂あたりが比企家の館があった場所と思われ、その一体を比企ガ谷(ひきがやつ)と呼ぶようになりました。

総門から二天門までの参道
総門から二天門までの参道
総門から二天門までの参道
参道奥に二天門

由緒

比企一族と鎌倉幕府初代将軍源頼朝の関わりは深く、頼朝の乳母であった比企禅尼は平治の乱後に頼朝が伊豆に配流されると、頼朝の後を追って所領の武蔵国比企郡に入り頼朝に食料や衣類などを届けたり、親族を頼朝の近侍に送ったりしました。
そのこともあり、比企禅尼の娘婿である比企能員には頼朝は幕府内で名誉を与え、大いに頼りにし、右腕として重用していました。また、比企能員の妻(比企尼の娘)は二代将軍となる頼家の乳母を務め、また、能員の娘若狭局は頼家の側室となり嫡男を授かっています。

建仁3年(1203年)に頼家が病床につくと、三代将軍について、頼家の弟実朝の外戚に当たる北条家と頼家の嫡男一幡丸の外戚に当たる比企家との間で思惑が対立し、北条時政の謀略によって若狭局と一幡丸を含む比企一族が滅ぼされます。これを比企の乱といいます。
頼家は、北条政子の温情で伊豆修善寺に配流され、三代将軍は北条家が担いだ実朝が就くことになります。

比企の乱の後、比企家のあった比企ガ谷の地には、頼家と比企能員の娘若狭局の間にできたとされる遺姫竹の御所(源頼家の娘・鞠子。妙本寺寺伝では媄子 一説には竹の御所の母親は木曽義仲の娘ともいわれる)のための住まいが建てられました。

比企能員には末の弟(一説には息子)で、比企大学三郎能本という儒学者がおりました。比企の乱の時にはまだ幼少で京都で仏道修行しており処刑を免れ、成人の後には京都に上り順徳天皇に仕え、承久の乱で順徳天皇が配流になると佐渡まで供をしたといわれています。
能本は竹の御所が4代将軍・九条頼経の御台所とになったことから、幕府の赦免によって鎌倉に戻り比企ガ谷に住み始めます。能本は、鎌倉に戻った後鎌倉で布教をしている日蓮聖人に出会い、比企一族の菩提を弔おうと文応元年(1260年)に自分の屋敷を日蓮聖人に寄進したのが妙本寺の始まりとされます。

日蓮聖人は、比企能本の父に「長興」、母に「妙本」の法号をさずけ、1260年から1274年ころの間に開山した寺を「長興山 妙本寺」と名付けたとのことです。

総門
境内案内

二天門


妙本寺の総門から参道を登っていくと、持国天と多聞天を安置する「二天門」、日蓮宗の開祖である日蓮聖人(祖師)を祀る「祖師堂」が目を引きます。

二天門は1840(天保11)年に建立されたとされ、持国天と多聞天を安置​していることから、その名が付いています。

二天門
二天門 龍の彫刻
多聞天像
持国天像
祖師堂側から二天門

祖師堂

祖師堂は巨大な木造の仏堂です。天保年間に建てられたと伝わります。

祖師堂正面
祖師堂脇の海棠
祖師堂全景
荘厳な造りの祖師堂

比企の乱

比企の乱の際、能員は頼家から北条氏を討つよう密命を引き出しましたが、北条政子がそれに気づき父北条時政に知らせたことで、能員は名越の北条の館におびき出され誅殺されます。そして残る比企一族は比企ガ谷の谷戸に籠って攻めてきた幕府軍と戦いますが敗北し、屋敷に火を放って自害しました。祖師堂に向かって右手には、比企一族を弔う四基の五輪塔、そしてその両脇に石塔が建っています。

比企一族の墓

焼け野原で頼朝と若狭局の子「一幡丸」の着物の袖が見つかり、戦火の中で死んだとされています。(諸説あり)
祖師堂前には、一幡の袖塚があります。

一幡の袖塚

蛇苦止堂

妙本寺の総門の左に方丈門がありますが、方丈門をくぐらず左方向に登っていくと、そこに蛇苦止堂(蛇苦止明神)があります。

右の黒い門が方丈門 門をくぐらず左に直進
石段の奥に蛇苦止堂

蛇苦止堂は、比企能員の娘で頼家の内室である若狭局を祀って、比企の乱の後60年ほどして建てられました。妙本寺の参道からはかなり外れていますので、訪れる人は少なく、竹林やアジサイを楽しみながら静かにお参りができます。

蛇苦止堂境内
蛇苦止堂本堂

蛇苦止堂には比企の乱の際、頼家の室であった若狭局が家宝を抱いて飛び込んだとする井戸(蛇苦止の井)があります。

蛇苦止の井

吾妻鏡では比企能員の娘について「讃岐局」の名も登場します。若狭局と讃岐局が同一人物なのか、姉妹なのかははっきりとはしていません。

本堂

妙本寺に戻って、総門をくぐらず、左側に進むと方丈門があります。
方丈門をくぐって石段を登っていくと妙本寺本堂があります。現在の妙本寺においては、総門から参道を直進すると、二天門をくぐり祖師堂が正面に立っていますので、祖師堂を本堂と勘違しがちですが、方丈門をくぐった先のお堂が本堂となります。

方丈門
妙本寺本堂正面
妙本寺本堂

源媄子墓

竹の御所の廟所。天保年間に釈迦堂が祖師堂横に移築された際に跡地を廟所とした。祖師堂に向かって左手の石段を上がると墓地となっており、その奥に廟所があります。

源頼家の子らのうち男の子は全員非業の死を遂げましたが、残る一人の竹の御所(源頼家の娘・鞠子。妙本寺寺伝では媄子)は頼家の死の際に北条政子の庇護をうけ争いに巻き込まれることを免れ、政子の死後には政子の実質的な後継者となります。頼朝の血筋を引く生き残りである竹の御所は、幕府の権威の象徴として御家人をまとめる役目を果たしたと言われます。
竹の御所の名前は当時比企邸のあった比企ガ谷に幕府が立てた館を竹の御所と呼んだことから、そう呼ばれるようになったと言われます。
竹の御所29歳のとき、13歳の四代将軍九条頼経に嫁ぐと4年後に懐妊しますが、母子ともに命を落とし、頼朝の血は途絶えてしまいます。

お屋敷としての竹の御所は現在の妙本寺内にあり、祖師堂に隣り合わせて源媄子の墓として霊廟が置かれています。

源媄子墓

季節の花

春には境内に点在する桜、その後を追うように海棠、初夏のシャガ、そして紅葉が見事です。あじさいが咲く季節になると至る所であじさいを見ることができます。
冬は、鮮やかな花々の季節とは異なり、緑も抑えられた落ち着いた妙本寺が体験できます。

花に囲まれる祖師堂
二天門脇から散り始めた桜と海棠
二天門脇の桜
源媄子墓の桜
おめでとうございます
滑川脇の寺標前に咲く桜

住所         鎌倉市大町1-15-1
          JR鎌倉駅東口徒歩5分 
          
電話番号       0467-22-0777
拝観料/入館料     志納
拝観時間/入館時間   特に定めなし
            ※寺務所 10:00~16:00